麺達(らぁめんず)

――キーンコーンカーンコーン
 放課後を告げるチャイムが鳴って、ガタガタと椅子の音が教室に響く。
 オレも一日の授業のけだるさを打ち消すように、机に両手をついて大きく息を吐く。そして、顔を上げながら
「今日もダルかったぁ…よし!こんな日ははがくれでラーメン…」
 オレの席の少し前、親友と書いて“マブダチ”と読むアイツに向けて発した言葉は、空しく教室の喧騒に溶けた。
 顔を上げきって前を見れば、席にすでにアイツの姿はなく、ぐるりと見回した教室の隅で、かろうじてドアから出て行こうとする後姿が見えた。
 オレはバツが悪くなって、はじめから独り言だったように呟いた。
「…食べるに限るよな、うん、アイツ忙しそうだし、今日は一人で」
 自分の席から通学用のカバンを引っ掛けて廊下に出ると、意外にもアイツはまだ教室の前にいたが、女子と一緒にいたので、声はかけなかった。
 それでも軽いイタズラ心で挨拶してやろうかなと思いなおしてよく見ると、その尋常でない状況に気がついた。
 眼鏡のおとなしそうな子(確か生徒会の役員だ)と、色黒の子(宮本と喋ってるのをよく見るから女子マネ?)、さらにはうちのクラスの岳羽さんにに囲まれて、アイツは引きつった笑いを浮かべていた。
 (うわぁ、ド修羅場じゃねぇか…)
 オレが見なかったことにして立ち去ろうとしたところで、アイツはやっとこちらに気づいて、苛められた子犬の眼でオレに訴えかけてきた。
 だが、廊下の向こうから憤怒の表情と半ベソをひっさげて突進してくる生徒会長様と隣のクラスの山岸を確認した段階で俺は親友の冥福を祈りながらその場を立ち去った。
 断末魔が聞こえた気がしたがきっと気のせいだ。
すまん友よ、あんなことがあったオレだけど、まだわずかでも恋愛に夢や希望を持って生きていたい。

「いい人見つけろとはいったけど、せめて対象は絞るべきだよなあ…」
 オレの切ない恋物語の一部始終を見ていたアイツが何を学んだのか知らないが、高校生にして、っとひいふうみぃ…五股…とはちょっとお勉強が過ぎたのではないか。
 いや、潜在的にはもっとヤバい予感がする。担任の鳥海がたまにアイツを見て頬赤らめてるし、こないだはたこ焼き屋で小さな女の子を連れてたし…。条例違反か刺されるかでニュースに出るんじゃなかろうかアイツは。
 ひょっとしてオレのあげたチョーカーが女難でも引き寄せてるんじゃないか、とか不安になったところで、オレの目の前に湯気が上がるどんぶりが置かれた。
「はい、特製一丁」
 いつもの店でいつものラーメン。遠く地獄にいるマブダチの無事を祈りつつ、レンゲでスープをひとすくい。
 ごくり。うん、やっぱり「はがくれ」のラーメンは絶品だ。
――ずるずる。
「まあ、無事でいても近いうちに俺に泣きついてくるな、アレは」
――ずるずるずる。
「まあ、今度は俺が慰めてやるか」
――ごくごく。
「それにしてもやっぱうまいなここのラーメン…でも」
――ごくごくごく。ぷはーっ。
「やっぱ最後の隠し味がわかんねえ…これがわかれば再現できそうなんだけどなあ」

たん。

 いつものように最後の1滴までスープを飲み干して、いつものようにドンブリを置いて、いつもと同じ感想で〆る。
 3日に1度くらいはここのラーメンを食べているが、この店の最後の隠し味は本当にわからない。
 アイツには「店の名前が関係してるんじゃ?」とか言ってみたがアレも単なる思いつきで、結局味の秘密は未だ解明に至ってはいない。
 俺は腕を組んで、店内を見回す。カウンターの席からは寸胴の中は見えないし、見えてしまったらそれはそれで反則な気もする。あくまでこういうのは自分で見つけるのがいいのだ、とは思うのだが気になるのも確かだ。
 ふと、目が一点に留まる。味の秘密とは別に俺が見つけたもの、いや、見つけた人がいた。
「あの人、またいる…」
 カウンター席の角の少し向こうに、ニット帽をかぶった強面の男性。
 大抵俺と同じか、入れ違いのタイミングで毎日のようにここのラーメンを食べている。自分でも相当通ってると自覚しているオレが毎回見ているのだから、そりゃあ相当な「はがくれ」フリークであることは間違いない。
 年はぱっと見オレより少し上だろうか。大人びた印象で大学生と言われてもあまり違和感はない。どっちかといえば、春先からずっとロングコートにニット帽なことのほうが違和感があった。
「アレかなあ、日光が苦手なタイプとか…」
 聞こえないように口に出しながら席を立つ。そろそろ毎週見ているテレビ番組に間に合わなくなりそうな時間だった。
「お会計お願い」
「はーい、ありがとうございますー!」
 威勢のいい声とともにレジにバイトのあんちゃんがやってくる。伝票を差し出し、いつもの値段が告げられる。
「へいへい、っと……あれ?」
 制服のスラックスのポケットを探る。…が、いつもの尻ポケに財布がない。
「あー、カバンかな?えーっと」
 昨日何かで財布を出したような気もする。カバンをあけてさぐる。やっぱりない。おれは必死に脳を働かせ、記憶をさかのぼる。きっと今のオレは先日テレビで見た逆行催眠の医者も驚くほどの逆行ぶりだ。
「ヤベ…机の上か…」
 そして辿り着いたのは机の上にぽつんと置かれた財布のビジョン。連鎖的に昨日の 夜、コンビニにジャンプを買いに行った記憶が蘇る。そういやあのあと財布は机に置いたきりだ…
「あのー…?」
 目の前のバイトくんが不審な顔で俺を見ている。
 確かに俺はこの店の常連だが、さすがにバイトくん全員が俺の顔を覚えているわけもなく、例え覚えていても「ツケといてくれ」なんてことが言えるような店でもない。
 イヤな汗が毛穴から噴出してくるのを感じる。マジでどうしよう…
 こうなったら漫画でよくある皿洗いか…いや、でも食器洗浄機使ってるしなこの店…、じゃあ逃げるか?いや、それはこの店のラーメンとの永遠の別れを意味する。それはマズい。ラーメンは美味いがそれは非常にまずい。

 チャリン。

「一緒に会計してくれ、連れだ」
 横から伸びてきた手によって、レジ前に投げ出されたはがくれ特製ラーメン2杯分の代金と伝票。
「あ、はい、ちょうど頂きます。ありがとうございますー」
「っし、いくぞ」
 つかまれる腕。
「あっ、ちょ!?」
 引きずるように店から出されて乱暴に放される。
 危うく転びそうになるが、なんとか踏みとどまって顔を上げると、すでに彼は俺に背を向けて立ち去ろうとしていた。
「あ、あの、ありがとうございます!」
 後姿に声をかけると、ロングコートにニット帽の彼は立ち止まって
「ラーメンの趣味は悪くねえけど、店に入る前に財布くらい確認しとけ」
 ポケットに手をつっこんだまま言って、彼は振り向かず遠ざかっていく。
「あ…はい…あの、お金は必ず返します!」
「別にいい」
 かろうじて聞き取れたその言葉は、ぶっきらぼうだけど、なんだかすごくやさしく聞こえた。

 ガタッ。
 チャリン。
「あ、特製ひとつ」
「はいよ、特製一丁ー!」
「あぁ?」
 コート&ニットの彼の横に腰掛けて、いつもの注文をする。
 彼の手元にはこの前のラーメン代。
 あれから数日後、いつものようにはがくれで彼を見つけた俺は早速恩を返すべく隣の席へ突撃したと言うわけだ。
「いいっつったろうが…」
 ギロリと睨まれて少しひるんだが、オレの感謝はその程度で揺らぐものではなかった。真っ直ぐに相手の目を見てから、頭を下げる。
「ありがとうございました!ホント助かりました!あ、オレ友近って言います。友近健二、月高の2年で…」
 たん。
「はい特製一丁!」
「それでですね…」
「おい」
「はい!」
「麺が伸びる、食え」
 目の前に置かれた特製ラーメンそっちのけで感謝と自己紹介を続けていた俺をまた 睨んで彼はそう言った。
 いい人だ。間違いなくこの人はいい人だ。なによりラーメンを愛する人に悪人はいないというのがオレの持論でもある。
――ずるずるずるずる。ごくごく。もぐもぐ。
 しばし無言でラーメンに舌鼓を打つ。オレが来た時点ですでに食べ始めていた隣の ニット兄貴(命名)はまもなく食べ終わろうとしているが、ここで味もわからないような食べ方をしたらまた怒られると思い、いつも通りに食べた。でもやっぱり、味の秘密は今日もわからなかった。
 オレが自分のラーメンを7割ほど食べ終えたところで、隣のニット兄貴はスープを飲み干し、ドンブリを置いた。まずい、帰っちまう!
「荒垣だ」
「ふぁふぇ?」
 突然彼が発した言葉の意味がわからず、麺を口に含んだまま変な声を出したオレに、ニット兄貴はもう一度告げる。
「荒垣真次郎、月高の3年だ。もっとも最後に授業出たのなんかいつか覚えちゃいねえがな」
 そう言って、ニット兄貴改め、荒垣さんは席を立った。立ち上がるときに、手元にあった伝票と、オレがおいたこの前のラーメン代を持って。
会計を済ませて店を出る彼は、背を向けたまま一度だけ手を降った。
 オレは残りのラーメンとスープを一気に胃に納めて、今日はきちんと会計をしてから店を飛び出したが、まだ9月になったばかりの暑い風が吹きぬけるだけで、荒垣さんはもう見当たらなかった。

 それからというもの、オレははがくれで度々荒垣さんとラーメンを食った。 最初はオレが横に座ると溜息をついていたけど、3度目くらいから観念したのか、少しだけ話をしてくれるようになった。
 もちろん、ラーメンが伸びないよう、スープが冷めないよう、最低限の言葉しか発しないのだが、もともとあまりおしゃべりではないだろう荒垣さんにはそれで十分なようだった。
 ある日、久しぶりにマブダチのアイツとはがくれに行ったら、やっぱり荒垣さんがいて、なんだか驚いた顔をされた。
「なんだ、お前コイツのツレだったのか」
 そう言って意外そうな顔で、荒垣さんはオレとアイツを見比べた。
 あまり自分のことを語ろうとしない荒垣さんの代わりにアイツに聞けば、荒垣さんと同じ寮に住んでいる、というかもともと寮生だった荒垣さんがカムバックしたとかそういうことらしい。
 荒垣さんもそうだったが、アイツもオレを見て
「荒垣先輩と友達だったのか」
 と、意外そうに言ったのは、きっと互いにあんまり自分のことを語ろうとしない人間だから、共通の友人がいたことが結構な驚きだったのだろうとオレは結論付けた。まあ、荒垣さんとオレが友人かは議論の余地があるが。
 そして、どうやら俺の推測は間違いでもないらしく、オレはその後、荒垣さんに会えばアイツのことを、アイツに会えば荒垣さんのことをちょくちょく聞かれた。オレが質問に答えながらも、「直接相手に聞けばいいのに」と言うと、二人ともが「なんだか改まっては聞きづらい」と答えた。
「まあ、毎日同じ建物で暮らしてるとそんなもん(です)かねえ」
 とかオレは言いながらも、なんというか、マブダチと尊敬する先輩の中継役を、ちょっとばかり誇らしいような気持ちでやりつつ、麺をすすった。

 十月四日、日曜だったけど、なんとなく荒垣さんがいる気がしてはがくれにいってみる。が、いなかった。まあオレの勘なんてそんなもんだ。
 でも来た以上はもったいないのでラーメンを食べて帰った。学校帰り以外に来ることなんてめったに無いから知らなかったけど、日曜ってオレの知らない店員しかいないんだな、と思った。危うく「いつもの」って頼むところだったぜ。いや、そんな頼みかたしたことないんだけど、この間みたいなことがあった時、やっぱり困るし。…この間は見たことある店員だったけどキョドっちまったから、まあどっちでも一緒か。
 そんなことをとりとめもなく考えて、やっぱり味の秘密はわからなくて、とりあえずいつものように食べ終えて店を出た。

 翌日、朝のホームルームで意味の判らないことを言われた。  三年の荒垣真次郎という生徒が暴力事件に巻き込まれて死亡したので、体育館で全校で追悼式みたいなのをやるとかなんとか。
 オレは本当に意味がわからなくて、体育館に向かう列でマブダチのアイツを探した。鳥海先生が言っていた言葉の意味を教えてもらおうと思ったからだ。
 アイツはいつもの順番できちんと並んでいた。いつものように制服を着て、いつものようにダルそうな姿勢で、でも今までに見たことも無いような顔をして立っていた。順平も、岳羽さんも、荒垣さんと同じ寮のヤツが、普段決してしないような顔をしているのを見て、俺は先生の言葉の意味がわかってしまった。
 つまり、もう二度と、荒垣さんと、はがくれで、ラーメンを食べることは、出来ない。そういう意味のことを、俺は聞いたんだ。
 追悼式では、順平がキレていた。お調子者だけど、ビビリだから全校集会で目立つようなことは決してしないあの順平が怒鳴っていた。でも、順平が怒鳴らなかったら俺が怒鳴っていただろう。もし俺が怒鳴らなくても、マブダチのアイツが怒鳴っていただろう。俺は、こいつらの友人でよかったと思う。

 放課後すぐに、はがくれに走った。
 店の扉の前で一瞬立ち止まる。ガラス越しに店内を見る。
 まだ夕食にはちょっと早い店内は、いつものような混み具合で、放課後すぐにここに来るようなヤツはそうそういないのか、月高の学生はいないようだった。
 と、その時、扉が開いて人が出てきた。前言撤回、月高の制服だ。
 一瞬、ほんとに一瞬だけ、荒垣さんかと思ったのは、オカルトっぽく言うと、オーラが似ているとかそういうやつだと思う。自分でもよくわからないが、そう思ったのだから他に説明のしようが無い。
 それは確かボクシング部で3年の…たしか真田先輩だったっけ。彼も荒垣さんと同じ寮の人だったはずだ。
 無言で歩き去る彼の背中を見送って、店に入る。威勢のいい「いらっしゃいませ」に迎えられて、カウンター席に腰を下ろすと、見慣れた店員が話しかけてきた。
「キミ、あのニット帽の彼とよく一緒にいた人だよね」
「はぁ…」
「彼からさ、頼まれたんだよ、休み前に」
「…何をですか?」
 店員は言いづらそうに声を小さくした。
「この店の隠し味、もしキミが気づいたら1杯タダにしてやってくれ、って。あ、タダとは違うかな、お金もらってるし」
 そう言うと店員はポケットからジャラ、と小銭を見せた。あの日、俺が荒垣さんに奢ってもらって、後日返したあのお金。結局、あの人は受け取らなかった、ってことだ。
 俺は震える声を全力で抑えて、いつもの注文をいつものようにした。
「そうですか…じゃあ特製一つ」
「はいよ、特製一丁!」
 本当は二杯頼んで、隣に置こうと思ったけど、荒垣さんならラーメンを無駄にしたらきっと怒るから、それはやめておいた。

 運ばれてきたラーメンをすすりながら、とりあえず俺は、隠し味の候補から目から出るしょっぱい水を除外した。この味じゃない。この味じゃないんだけど…それでもその日は、ラーメンからその味しかしなかった。

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