はがくれな日々  第2話「5月1日」

「なんでこんなことに、チクショウ…」
 自分の口から出た言葉を後悔した。
 次の瞬間、腹部に衝撃がくる。
 ごふっ、とくぐもった声を漏らし、オレの体がくの字に折れて膝をつく。
 右手で殴られた腹を押さえて、地面についた左腕の手首のスポーツウォッチが目に入る。
 時間は4時50分を回ったところ、いつもなら今頃、イヤイヤながらバイト先のドアを開けている時間だった。

 オレは世に言う浪人生というやつだ。ついでに貧乏学生という呼び方もある。
 ただ、あまり俗にいう貧乏学生のイメージとはかけ離れた感じで、品行方正なほうではなく、ちょっとしたアウトローの気質というか、サボり癖や悪い仲間との付き合いがいつもオレの行く道に転がる小石になっていた。
 とはいえ、表立って社会から爪弾きにされたいわけではなく、なんというか、自分で言うのもなんだが「悪ぶりたい」というのが一番の動機なわけで、煮え切らない自分にイライラしていたのも確かだった。要するに半端者ってわけだ。
 タバコも酒も中学のころから平気でやっていたが、仲間内で時折面白半分にまわってくるクスリには絶対手を出さなかったし、学校は平気でサボるくせにバイト先には言い訳の電話を欠かさなかった。
 今日だって、別に特に悪いことをしていたわけじゃない。親に泣きつかれて渋々行っている予備校の授業をサボってうろついていただけだった。
「4時…っと、今日バイトか、どうすっかな」
 5時から遅番のバイトが入っている日だったが、どうにも行く気になれなかったが、時給がモロに跳ね返るバイトにとってはサボりは減給と同意なので少し悩む。バイト先には10分もあればたどり着く位置だ、もう少し悩んでいよう。
 いいかげんバレてるであろうオレの言い訳に最近嫌な顔をし始めた店長や同僚の顔を思い浮かべながら歩いていると、肩に衝撃があった。
「ッ!」
 反射的に目線をやってしまってから後悔した。次に謝罪の言葉が咄嗟に出てこなかったことを後悔した。
「あ?おめェぶつかっといてなにガンくれちゃってんだコラ?」
「あーあー、マー君にぶつかるなんざ度胸あるねぇキミィ?」
「どうする、マー君、慰謝料頂いとく?」
 そして、路地裏に引きずられながら、多分謝ったところで変わらなかったと思った。謝る労力が無駄にならなくてよかった、と呑気に考えていたら、顔面を殴られた。

 口の中に鉄の味がする、頭を揺さぶられてクラクラする、サイフを抜き取られた尻ポケがスカスカする。
「なんでこんなことに、チクショウ…」
 言わなきゃいい言葉を言う自分にイライラする、良くも悪くなりきれない自分にイライラする、中途半端な自分にイライラする。
「チッ、ロクに金も持ってやしねぇ…」
 オレのなけなしの千円札を抜き取った財布を投げ捨てて、ぶつかった奴等のリーダーがオレを締め上げる。
「盗んででもなんでもいいからあと10万持ってこいや、な?なんだっけホラ、医者?」
「マー君、慰謝料慰謝料」
「あー、それそれ、バイショーしてもらわねえとな」
 ヒャヒャヒャと、下卑た、何も考えてなさそうな笑い声を上げながら、そいつはオレの千円札と予備校の学生証をパタパタと振った。持ってこなければ追い詰めるぞ、という意思表示だろう。オレの仲間にもこういった輩は確かにいたが、ここまで露骨なヤツとはつきあったことがなかったし、こういうやつはカモと見るや破滅するまで付きまとうという話も良く聞いた。

「ケッ、くだらねえとこ見ちまったな…」
 ふいにオレの襟をつかんでいるそいつから別の声がした、と思ったがどうやら違う。その声はそいつの後ろから聞こえてきた。
「んだ?テメェは?」
 目の前の男の肩越しに見ると、そこにいたのはロングコートにニットキャップの男だった。取り巻きの二人が今にも頭突きしそうな勢いでガンをくれている。端から見ればその光景はなんとも滑稽だったが、本人達はそれがカッコイイとか怖く見えると思っているらしかった。
「ラーメン屋への近道なんだ、邪魔すんな」
 そう言って、無造作にひとりを突き飛ばしたそのコートの男をオレは知っていた。
「っにしやがんだコラ」
「あー、こりゃ慰謝料だな兄さん」
 通り抜けようとした肩をつかんだもうひとりに目線も向けずに裏拳一発。次いで殴りかかったもうひとりに回し蹴り一発。もんどりうって倒れる二人の男を改めて見ることもせず俺と、オレをつかんでいる男の隣まで歩みよるそいつは、オレのバイトしてるラーメン屋の常連、通称「ロンコのあんちゃん」だった。
 ふいに、オレの首から圧力が消える。かわりに後方へ吹っ飛ばされて尻餅をつく。俺の襟を掴んでいた男がオレを突き飛ばし、ロンコのあんちゃんに向き合っていた。 「ん?お前、どっかで」
 オレの代わりにコートの襟を掴まれながら、平然と呟く。確かにオレからすれば特徴的な常連なので覚えているが、客がひと山いくらのバイトをいちいち覚えてはいないんじゃないだろうか。
 そもそも、コートの襟を掴んだ男が噛み付きそうな顔をしているのでそれどころではないと思うのだが。
「ああ、やっぱ金曜シフトの野郎か」
 覚えていたようだった、と感心する間にも、無視された男の顔がどんどん赤くなっていく。掴んだ左手に力を入れ、右手が大きく振りかぶられる。
 ロンコのあんちゃんの頬にいい感じのストレートが決まると思った次の瞬間、鼻血を出してうずくまっているのは殴ろうとしていた男のほうだった。

「チクショウが…やりやがったな…」
 鼻っ柱に頭突きをくらい倒れこんだ男は、起き上がってもう一度掴みかかる。が、ポケットに手をつっこんだまま、ロンコのあんちゃんはそれをかわして男のケツを蹴り飛ばした。
 今度は前のめりに倒れて、ヘッドスライディングのように路地裏に滑り込む男。そして、ロンコのあんちゃんは男の背中をブーツで踏みつけて、ポケットから数枚の千円札とオレの学生証を抜き出す。
 ついでとばかりに起き上がれない男の顔面にサッカーボールキックを叩きこみ、完全にK.O.した。
「ったく、手間とらせやがって」
 吐き捨てるようなセリフと共に、オレの目の前に金と学生証が差し出された。
「あ、あの」
「…今日は休みか?」
「いや…」
 顔を伏せながら差し出された物を受け取ると、ロンコのあんちゃんはため息を一つついて、オレの横を通り過ぎながら、独り言のように呟いた。
「オレのダチに一人バカなのがいてな…」
 何の話が始まったのだろう、いや、本当に独り言かと振りかえらずに耳をそばだてる。
「そいつは前を向いてるフリをして、後ろばかり見てる。ただ、そいつは後ろをチラッチラ見ながらもどんどん前に進んでくんだ。さっき会って来たが、ケガして前に進めないことを酷く悔やんでた。でもな、それは自分の進む道でつまづいてるだけで、そいつは起き上がってからまた進むんだ。俺みたいに、道自体を外れちまってるヤツとは違う…」
 やはり独り言だったのだろうか、ただ、やけに悲しそうな声で彼は言った。
 それで終わりかと思っていたら、少し間をあけて、わずかに軽い語調で続ける。
「オレの行きつけのラーメン屋でな…バイトで一人、よくサボるヤツがいるんだと。先輩も店長も、まあ手を焼いてるんだが…」
 オレはギクリとした。でも、何も言えなかった。「それはオレです」とも「そうなんですか、困ったやつですね」とも言えなかった。オレの少し後ろで立ち止まって、彼は続けた。
「それでも、自分たちもそういう時期あったしな、って笑いあってたぜ…悪いやつじゃないし、そろそろ真面目になってくれるんじゃないかな、ってよ」
 ハッとして振りかえると、彼の後ろ姿は大分小さくなっていた。

「遅れてすいません…」
 恐る恐るオレのバイト先「はがくれ」の戸を開ける。時計はすでに5時半をすぎており、遅刻というにも遅すぎる。まだピーク前で、店内の客が思ったほど多くないのがせめてもの救いだった。
 カウンターの中では先輩が洗い物をしながら俺の方を驚いたような顔で見ていた。おそらくは今日はサボりだと思っていたのだろうと、深々と頭を下げながらロッカーへ向かう。
 ロッカーについている鏡を見て驚いた。殴られた頬が結構腫れている。なるほど、先輩が驚いたのはこれのせいもあったのかと、着替えてから水で少し冷やす。早足でカウンターに行くと客の数が少し増えていた。
「すんませんでした」
 改めて頭を下げると、先輩は無言で何かを差し出した。
「えっ…」
 先輩が差し出したのは俺のサイフだった。そう言えば、あのとき放り投げられたまま拾うのも忘れていた。しかし、先輩がまさかそれを拾ってきたわけはない…ということは
「常連の、お前も知ってるだろ、ロンコのあんちゃん。あの人がさっき来てな『今日来るバイトのヤツの忘れもんだ』って、あと『遅れるだろうが来るから』だとよ。お前あの人と知り合いだったのか?」
「い、いや…」
「そっか、まあいい、洗い物溜まってんぞ」
「あ、はいっ」
 遅れたことには特に触れもせず、先輩はオレに指示を出して別の作業に移った。
 ガラガラと扉の開く音がする。オレはもう少しバイトを続けようと心に決めて、入ってきた客に威勢のいい声をかけた。

続く

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